光原子のプロフィール

本名は青陶 星也

平成10年12月24日米国ロサンジェルス生まれ

ビバリーヒルズで育ち 中学の時バーバード大学から 飛び級の誘いがあり

さらにテニスでも全米ジュニアチャンピオンとなり 双頭の天才少年と騒がれた

中学卒業後日本に帰国し 偏差値80の東京ロサール高校に入学

学業はトップ 開校以来初めての一年生生徒会長となった

夏休みに参加したウィンナーブルドン大会では三位となり

将来の日本人初の四大大会制覇が期待されている

さらに身長180センチに黒髪のギリシャ彫刻の様な容姿から

ジャビーズ事務所にスカウトされ少女雑誌の表紙の常連モデルとして活躍してきた

H25年10月24日 「目指せ 第二の 明日の一億円スター ヒカル キャンペーン」に合格

 

青陶星也君のお父さんはハードバンク創業者 青陶 林蔵さんです。

大北泰三著 「青陶 林蔵伝」には 青陶 林蔵さんを初め星也君のすごい親戚の事が書かれているので、その一部を著者の了解を得て紹介しましょう。

 

世界的IT企業ハードバンク創業者、青陶 林蔵の父は崎岩家5代目の崎岩寅蔵であり、本来は、青陶 林蔵は崎岩家6代目四菱財閥の保守本流を順風満帆に歩く星の元に産まれたはずであった。しかし、実際彼の歩んだ道は脇道をそれ、崎岩家を勘当された後、独力でハードバンクを創業し短期間に世界的企業に成長させる波乱万丈な道を歩いた。

もっとも明治2年に四菱財閥を創始した崎岩家の初代の崎岩一太郎も投獄されたり、政商として暗躍し巨大な財をなすなど、波乱万丈な人生を過ごしており、やはり青陶 林蔵には、崎岩一太郎の血が流れているのであろう。

なお日本一の巨大な財閥に成長した四菱財閥はS21年にGHQの命令で解体され、崎岩家の120兆の財産は没収され、また四菱の名前も使用禁止となった。

しかしS27年には四菱の名称が再び使用が許可され、さらに、S59年には、崎岩家出身者や、その配下の人間が社長で、日本の全分野で代表的な企業となった四菱系34社が結集して四菱会が設立された。

 

青陶 林蔵の父、崎岩寅蔵はT9年に生まれ、終戦後、人種差別、反日が激しいアメリカに単身乗り込み果敢に商売をしている時、アメリカのロッケ、フエルリン財閥三代目当主の12番目の子供である、ロッケ、エリザベスと恋に落ちた。

なおロッケ、フエルリン財閥は、アメリカ階級社会の頂点であるWASP つまり、W White 白人 AS Angro Saxon アングロ・サクソン系 P Protestant  新教徒が作った、アメリカの保守本流の世界一巨大な総資産1200兆円の財閥である。

従って、アメリカの植民地の異教徒の黄色い猿の解体された貧乏財閥の直系の寅蔵とエリザベスとの交際は当然ロッケ家から激しい妨害に会った。しかし、それを二人は乗り切り、S24年に結婚した。

ロッケ家には当然石油や金融等に多くの大実業家が輩出しているが、政治家もおり、133代アメリカ大統領、ロッケ、エドワードはロッケ、エリザベスの従弟である。

またアメリカのテニスの名選手ポート・サンプラーザはエリザベスの大叔父、

ロッケ・エッチラーノが、秘書のキャサリン・エバートに産ませた隠し子だとの噂がある。

また故マイケル・ハクションがロッケ、エリザベスの叔父のロッケ、ビクトリーの隣に住んでおり、マイケル・ハクションの飼い猿が、ロッケ、ビクトリーの庭に度々入り込んで、リンゴの実を盗んで困ったという。そのお詫びにマイケル・ハクションはロッケ家の大広間で、日本から招いた猿回しの特訓でムーンウォークをする飼い猿をバックダンサーにしてスリラーを歌ったというエピソードもある。

なお崎岩寅蔵はS37年に帰国後、四菱商事社長、四菱会会長、日米友好協会会長経団連会長等の要職を歴任している。またその優れた人格と日本の復興もあって、崎岩寅蔵はロッケ家でも公私ともに認められるようになり、ロッケ財閥と四菱財閥の結びつきも強いものとなった。

そんな崎岩寅蔵、エリザベス夫妻の6男として青陶 林蔵は、S49年に生まれた。兄達は、優等生で東大、慶応、早稲田などに入り社長コースをたどった。しかし一番上の兄とは20歳、すぐ上の兄とさえも10歳も離れて産まれた末っ子の林蔵は溺愛された。そのためか、林蔵は我儘な勉強嫌いの悪ガキとなり、さらには中学生の時には、金に困ってもないのに遊びで、少年犯罪をおかすようになったが、林蔵は狡猾でまた稀には親が揉み消したこともあって、警察沙汰になることは一切なかった。勉強しなくても、林蔵は名門東京ロサール高校に合格し、真面目に学校に通う優等生となり、親は林蔵は立ち直り、今後、兄達と同様の道を辿ると安心した。

ところが、林蔵は裏では、悪事を重ね、他校のヤンキーと衝突するようになった。その結果林蔵は一般の高校ヤンキー高校の集まりの東京連合の劣等生ヤンキー達が見守る中で、ヤンキー名門校城東工業の番長、東京連合会長の安藤狂吉とタイマンをすることになった。二人の対決を見守る劣等生ヤンキー達は、当然劣等生ヤンキーの星安藤狂吉が林蔵を秒殺すると信じた。いくら悪知恵が発達していても優等生林蔵は喧嘩は弱いはずである。しかしながら、林蔵は実は格闘技に長けており、狂吉は関節技で秒殺され病院送りとなったのである。劣等生の星の狂吉の余りの惨敗を目の当たりにした劣等生ヤンキーは劣等生の得意分野ですら、林蔵に歯が立たない現実に強いコンプレックスをもった。このようにして、超金持ち名門東京ロサール高校の優等生林蔵は、東京連合会長となって東京のヤンキーのボスに高校1年でなったのである。しかし、林蔵は半年もすると再び狂吉に会長の座は禅譲し、林蔵は普通の優等生に戻ったのである。もっとも林蔵は狂吉を通して、東京連合のヤンキー達が悪事で稼いだ金の上前はねていた。十二分な小遣いを親から貰っていた林蔵は、他のバカなヤンキーを駒にして、犯罪をゲームにして楽しんでいたのである。このように林蔵は実は邪悪で陰険な性格であった。ただ我儘坊ちゃまの林蔵もヤンキー達との抗争、その支配という人生経験を経たせいか、血のせいかこの頃には人心掌握や組織を動かす術を身に着けるようになっていた。

さらに林蔵には、弱い者を助ける親分肌という矛盾した性格もあった。

そして元来は超お坊ちゃまだった林蔵は、危ない遊びを通して、一般庶民や、貧民の住む地域に行くこともあるようになった。

そんな中で朝日町の有名人キィーちゃんを知った。キィーちゃんとは、いつも浮浪者の様な容姿で、「キィー、キィー」と奇声を発しながら歩いている、ハーフの気持ち悪い少年であった。

キィーちゃんは大柄だったが、動きはスローモーで、いつも強いヤンキーからいじめられている弱いヤンキー達の恰好の憂さ晴らしの的となり、良くボコボコにされていた。哀れになった林蔵はキイーちゃんを守ってやるようになった。

誰とも付き合わず、誰とも話さなかったキィーちゃんも、林蔵を自宅に招くようになった。気持ちの悪いキィーちゃんの招きだったが、好奇心の強い林蔵は、キイーちゃんの自宅に入るようになった。

林蔵が家に入ると、家族はおらず、ゴミ屋敷の居間で、一人訳の分からない話を一方的するキィーちゃんを見ながら、林蔵は世の中には自分の様に全てにおいて恵まれた人間もいれば、キィーちゃんの様に、悲惨な人間もいることに気づいた。

さらに林蔵はキィーちゃんの意外に大きな部屋に入ってみると当時日本では珍しかった、パソコンがおいてあった。そしてキィーちゃんの話している訳のわからない一方的な話は皆パソコンの話で、何にも恵まれていないと思っていたキィーちゃんはコンピュターの天才であることに気づいた。

なお、キィーちゃんとは、現ハードバンク副社長ダグラス伊藤である。

私生児であった伊藤はアメリカ人将校の父に銀座のホステスの母ともに、日本に置き去りされ、その後母と二人暮らしていたが、学校に行っても、気持ち悪いし、空気も読めない性格だから、イジメられていた。小学校5年頃からは、母親も伊藤を殆ど見捨てるようになり、時々高額の小遣いを渡す以外は別の高級マンションに住んで、一切伊藤の世話をすることはなかった。その後はダクラス伊藤は引きこもった生活をしていた。

林蔵は当時パソコンとかITの事は詳しくはなかったが、必ず発展するとの確信はあった。しかし最初は林蔵の邪悪で陰険な性格の面が勝り、林蔵はダグラス伊藤を使って、世界のIT犯罪の先駆者となって、大儲けをした。しかし結局は、いつもは人に罪を被せていた、 林蔵も、今度は詐欺で逮捕され、余りの悪質性からさすがに、親ももみ消せず、高校三年で退学となり、少年刑務所に一年服役するはめになった。もっともうがった見方では林蔵は一年くらいなら刑務所暮らしも話のタネ、人生経験になると林蔵にしては粗雑な犯罪に手を染めたのかもしれない。

一方ダグラス伊藤は、林蔵がいつもと逆に親分肌の性格で「自分にいわれるままにやっていたたけだ」、とかばったり、統合失調症だと思われたので、起訴はされなかった。なお最近のネットにはアスペルガー症候群の有名人として、イチロー、ビルゲイツらとともにダグラス伊藤の名前があり、統合失調症の診断は疑問との意見もある。

 

崎岩家から勘当された林蔵は、林蔵の乳母をしていた、青陶クマの養子となった。

そして林蔵は出所後、再び以前の様に悲惨な状態になっていたダグラス伊藤を青陶家の二階の自分の隣の部屋で保護し、さらにH5年20歳でIT企業ハードバンクを立ち上げ、その後は今度は真面目に、脱税等も含め一切犯罪行為は行わなかった。林蔵の周りには不思議に各分野の一流人材が集まり、彼らをうまく使った敏腕経営でハードバンクを急成長させH9年にはアメリカにも進出し、5年足らずで世界的企業にした。

なお、後に一流暴力団組長に大出世した劣等生ヤンキーの星安藤狂吉とは現在もあり、林蔵は汚い仕事を安藤狂吉もしくは安藤狂吉を通して裏社会にさせているのでないかとの噂が絶えない。しかし、林蔵は高校時代からの損得勘定でない友情に基づいた交流だとしている。

 

私生活では林蔵はH8年宝塚の新進お嬢様スターとして活躍している最中の青陶シルヴィと電撃結婚している。

青陶シルヴィは首相を輩出している鞍馬家の出身のため、政略結婚との批評もある。

青陶シルヴィの父は鞍馬三吉である。

後に外務大臣となった鞍馬三吉が、フランス大使をしていた時、フランスの花といわれたフランス美人女優ミレーヌ・バズイと恋に落ちS43年に結婚し、二人の間に三女としてシルヴィが生まれた。

またシルヴィの兄はハーフの美男俳優として有名な、田岡真一である。

フランスの美男俳優アレン・ドレンはシルヴィの祖父である。

 

鞍馬三吉の叔父鞍馬一吉は第九代の総理大臣である。

鞍馬一吉の父が明治維新の立役者、鞍馬小五郎である。

鞍馬一吉に限らず、日本の歴代の総理大臣の全てが、

鞍馬家と何らかの姻戚関係にある。また鞍馬家は天皇家、徳川家とも姻戚関係にある。

現在の総理大臣の案部珍蔵も鞍馬家の血筋である。

案部珍蔵の祖父の鞍馬小太郎は戦前に東大の歴代の首席の中でも特にずば抜けた成績で東大を卒業。また極めて、悪知恵にもたけ、卒業後の財務省に入り。他の先輩の東大出の官僚を手玉に取り、満州で利権をむさぼり、東条内閣で経済産業省大臣を務めA級戦犯として絞首刑を宣告されたが、恩赦で切り抜け、首相となり日米安保条約を基本に日本の戦後の復興の基礎を作った。右翼やCIAとの関係も深いとの噂もあり、昭和の妖怪ともいわれた超大物の保守本流政治家であった。

また歴代の首相の中で最長の長期政権を誇る藤田佐助は案部珍蔵の大叔父で、鞍馬小太郎弟である。案部珍蔵の父、案部太郎は外務大臣を務め総理目前で病死している。